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友人の死を通じて知った、悲しみの持つ力

先日恵子さんとの特別クラスを担当しましたが、実はその前日(アメリカの9月21日)に仲良しグループの友人を亡くしました。DAIJOUBUのすべてのクラスでは最初にEQチェックイン(今日はどんな気持ちか、を自分でキャッチしてみんなと共有する時間)を行いますが、そこでさらっと流そうとした私の言葉を恵子さんが遮り、少し時間をいただき皆さんに慰めていただいて、感謝しています。あの日はまだ友人の死が現実に思えなくて、確かに悲しいのですが、動揺していて、どこかふわふわとしたような、「信じられない」という気持ちの方が大きかった頃でした。

亡くなった友人は私が2021年にアメリカに引っ越してすぐに仲良しになったガールズグループの1人で、日本人ミックスで、私の10代の頃からの大親友の夫と友だち、という面白い縁もありました。

Whidbey Islandという島に住んでいて、みんないろんな縁でこの島に引っ越してきたので近くに親がおらず、ガールズ6人と、その家族みんなでしょっちゅう遊んだり、ただ集まったり、支え合ったりして暮らしていました。昨年秋に6人中3人が他州へそれぞれ引っ越してしまい、それからもしょっちゅうグループチャットやビデオ通話でやりとりしていました。私たちのことをWhidbey sistersと呼んで、思えば出会ってほんの数年なのですが、本当に助け合いながら姉妹のように仲良くやってきていました。

EQと出会ってしばらく経ち、こうしてDAIJOUBUの活動のおかげもあり感情を活用して行動することが比較的得意だと思っていた私ですが、今回は悲しみという感情を通じて、感情の持つ力の新しい側面を発見しました。今日は、友人の死を通じて体験している悲しみという感情の静かなる力について、振り返りながら書いてみます。

心の底の方に沈んでいく感覚

友人は昨年夏に突然ひどい息切れと体の痛みで救急で運ばれてから、何度も入退院を繰り返しました。他州へ引っ越してからは入退院する以外は常に仕事で本当に忙しそうで心配していました。子どもたちだけでなく、スタッフの一人一人も個として関係を心から大切にする、素敵な保育園の代表でした。

こうして「でした」と書くのもいまだに変な感じがします。

救急に運ばれてすぐ私たちグループへ連絡があり、3日間みんなで祈りました。がんばれ、がんばれ、とどれだけ祈っても祈るしかできない無力さも思い知りました。運転をしていても、勉強をしていても、子どもと過ごしていても、仕事をしていても、ご飯を食べるときも、シャワーを浴びるときも、寝る前も起きた後も、彼女のことを考えてはただただ涙が流れてしまう。日常の中で何をしていても不意に「どうして彼女が」「どうにか生き延びて」「がんばって」と思わずにいられない、そんな3日間でした。彼女の仲良しのお姉ちゃんが病床へ駆けつけて間もなく命を引き取りました。たった33歳の、美しい命が星になってしまった。

友人の夫もお姉ちゃんも、仲良しグループの仲間です。世界で誰よりも深い悲しみの中にいるというのに、この二人が中心になって、あっという間にお葬式の準備が進んでいきました。明らかに心のペースとは違うスピードで物事が決まっていく。誰がこれを進めさせているんだろうと不自然にも思えましたが、死去から2か月、お葬式から1か月経つ今、いやでもどうしても気が付けば悲しみに深く深く沈んでいくあの時期に、ああしてプッシュされるように頭を使って前に進めていく時間があるのもまたある意味良かったのかも、と思えるのが不思議です。

悲しみは、ピッと切り替えられない

ロバート・プルチックという心理学者の『プルチックの感情の輪』または『プルチックモデル』では、感情には種類があり、それぞれ強度がグラデーションであると言います。悲しみはこれまでの人生で経験してきたことはもちろんありましたが、私が今回体験したのはgrieve/悲嘆でした。

ズーンズーンと深く深く沈んでいく感覚。心も体もゆっくり進もうとしていて、「切り替えなきゃ!」という風にも正直行きません。明らかにそれは心にとって無理やりでした。周りに一人も「もう戻ってこないんだから切り替えなよ」なんて乱暴なことを言う人がいなかったことにとても感謝しています。我が子たちも、どうしても泣いてしまう私をそのまま受け入れてくれてたっぷりと時間をくれましたし、「辛いよね」と短い言葉でただ受け入れてくれた友だちばかりで、「悲しみが私といっしょにいることを許されていた」という感覚がありました。

お葬式に参列し、棺の中にいる彼女を見て、やっと彼女の死が現実になり、やっと彼女への気持ちがぽつぽつと言葉になり始め、そこから少しずつ、行き場のない悲しみが、次の段階に進んだ感覚がありました。

悲しみは、大切なことと自分をつないでくれる感情

シアトルにあるHarbarview hospitalというトラウマ治療でとても有名な病院に勤務する心理学者と話す機会がありましたが、その方曰く、たっぷりと悲しむことは、悲しみのプロセスにおいてとても重要なことだそうです。私もEQの観点からそう思っていました。感情は意味があって湧き上がってくるものです。感情は私たちへのメッセージ。受け取られなければどこへ行くのでしょう?自分から沸き上がった感情を自分が受け取らなければ、自分で自分を無視することになります。セルフ・ネグレクトという言葉もありますが、これは後から効いてくるので注意が必要です。セルフ・ネグレクトについてはまたいつかコラムを書こうと思います。

悲しみという感情は、どれほどその人が・それが大切だったかを教えてくれますし、その大切な人・何かと自分をしっかりと繋いでくれる感情です。深く、ずっしりと重く、長く続きます。私自身この長さにいまも驚いていますし、いまこのコラムを書きながら、私はまだまだ泣いています。

夢の中では何度か友人に会っていて、いつもの仲間で、誰かのおうちでいつも通りに楽しくしていて、そのグループで過ごす時間や仲間の存在がどれほど私にとって大切だったか、この長く続いている悲しみが私に教えてくれています。こからはもっと友だちのことを大切にしたい、普段からたくさん会話しておこうとも思ったりしています。

無理をして感情に蓋をするのでなく、涙がこみ上げたら泣くこと。そして仕事や家事など、やらなければならないことがあるときにはそれに専念すること。そうしてたっぷり悲しむことと無心になることを行ったり来たりすることが、健康的な悲しみのプロセスであると、その心理学者が教えてくれました。

悲しみは、静かでやさしい光で自分を包んでくれる感情。乗り越えるものではなく、共に生きていくもの

「感情はコントロールするのではなく、活用するもの」とDAIJOUBUのEQでは伝えています。悪い感情、ネガティブな感情、マイナスの感情など、存在しないからです。

例えば私は、「怒り」という感情を活用するのがとても得意です。ひょっとして不思議に聞こえるかもしれませんね。アンガーマネジメントというのが日本では大流行ですし、「怒りはいけないもの」、特に、女性や若い人たちほど、怒りというのを表出することを許されにくい社会規範・文化でもあるので違和感があるかもしれません。私が悔しくて涙を流しているときのパターンの中に、「どうして押し付けられなければならないんだ」「どうして自分らしさをいとも簡単に封じるようなことが許されてしまうんだ」というセリフがあり、その悔しさの奥には、強い怒りがあります。私はそれを活用して、DAIJOUBUを立ち上げたり、グローバルを舞台にEQを学んで活動をしたり、大学院で社会正義と人権を勉強したりしています。怒りという感情のエネルギーの大きさ、速さ、ダイナミックさ、力強さ、正直さ、まっすぐさを力に変えて、行動をしてきたというわけです。

今回大きな悲しみという感情と共に過ごして約2か月の間に学んだのは、悲しみという感情はとても静かで、じりじりじわじわと宿り自分と寄り添っていて、とてもやさしくて、自分のことをわかってくれていて、小さくても大切な変化のヒント(もっと普段から友達と連絡を取ろうなど)を与えてくれる、とても豊かで温かい感情だということ。悲しみは怖いものでなく、たしかに時間はかかるし重たいし時に苦しいくらい泣いてしまうけど、静かでやさしい光で自分を包んでくれる感情なんですね。

だから、乗り越える、終わりを迎える、といったことはないように感じます。段階が変わっていく、変化はしていくけれど、これからも私は、大切な友人を失ったことが悲しいことに変わりも終わりもありません。悲しみとはいっしょに生きていくんだなと納得しています。

すべての感情に意味がある、すべての感情が自分を大切に思っている

いまもまだ悲しいし、お葬式で会った友人のご両親、夫と姉が経験している痛みを思うと、今日も一瞬で涙がこみ上げてきます。どうか彼らにたくさんのやさしい光が注がれて欲しい、もうこれ以上何も奪わないでほしいと、心から思います。

EQを専門に活動してきて感情の持つ力、すばらしさには何度も何度もしびれるほど感服してきましたが、今回悲しみという感情を味わうことを通じて、本当に、本当に、無駄な感情・いらない感情などひとつもないんだな、自分に沸き起こる感情はこんなにも自分のことを大切に思っているんだな、というのを痛感しています。

どうして彼女が死んでしまわなければならなかったんだ、という気持ちへの答えは一生得られないと思いますが、お葬式でpastor(牧師さん)が言っていた「今日参列されている皆さんが彼女を思い浮かべるとき、彼女は私たちがいる場所よりもうんと美しく、やさしく、心地よく、光と愛に満ちた、彼女のお気に入りの場所で、自由に豊かに生きていることを忘れないでください」という言葉を思い出し、まだまだ悲しいけど、きっと今頃私の大切な友人は、美しくて愛らしくていたずらな笑顔で、広くてお花のたくさん咲いた草原で、たくさんの子どもたちや動物と戯れていることでしょう。彼女を思い出すときは、そんな様子を思い浮かべて、大好きだよ!と心でつぶやこうと思います。

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