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「対等である」か「対等でない」か。小さな意識の違いがもたらす大きな違い

学校現場や療育の現場など教育に携わって10年以上になります。その中で私自身の教育者として大切にしている軸に「対等である」という意識があります。今回は何故、そのような意識が大切だと感じたか。そして、その意識がもたらす影響を述べたいと思います。

立場の違いが生む意識

先生と生徒、先輩と後輩、上司と部下…世の中には様々な立場の違いがあります。そして、その違いが知らず知らずのうちに「対等でない」意識をうむことはよくあるかと思います。いつの間にか、その立場の違いから生徒や後輩、部下などの意見を聞き入れないといったケース、また、意見を言えない雰囲気を作り出しているといった状況もあるかと思います。

 では、そのような振る舞いをしてしまう背景にはどんな要因があるのか⁉︎私の実体験を元にEQ的に分析してみようと思います。

恐れや自信のなさがもたらす振る舞い

私自身、教員になった最初の数年を振り返ると子どもに対して対等であるという意識はなかったと感じます。
その時、自分自身の中にあった感情、思考、その背景となる価値観は以下の通りです。

感情

思考

価値観

 

 このように、根底には、生徒に舐められてはいけないし、校則をしっかり守らせたり、こちらの指示の通り子どもを動かせることが教師として有能という想いがありました。実際に、それが出来ていると見映えが良いというか、教師としても一目置かれるみたいな部分もあったのでそこを目指していた部分があったかと思います。

 ですが、それをするとなると、「ルールを守らせなきゃ」や「舐められちゃいけない」…といった思考から、「恐れ」や不安といった感情が湧いてきていました。そして、その感情の要因をもっと深ぼっていくと、「自信のなさ」があったかと思います。

 そんな状態のときの自分自身の振る舞いは、「全校でやっているルールだから」と自分自身も何も不思議に思わず、毎朝、スカート丈のチェックを膝立ちしてもらってチェックということを、担当の係の生徒にやってもらったりといったこともありました。

 また、生徒会活動などで、何か生徒からアイデアが出たときも、基本私自身の中に筋書きがあって、その方向にもっていくといったことがベースにありました。そして、時に当番活動を忘れたのどの失敗をした生徒に対して、みんなの前で忘れた理由や反省を言ってもらうといったこともありました。

 今、考えれば信じられないです。そして、そのような振る舞いから子どもたちはどんどん萎縮して、自身の考えなどを発信する数が少なくなったと感じました。

そして、そこに信頼関係はあるかといったら私は無いと思います。どちらかというと、主従関係のような感じです。

自分を変えてくれるきっかけをくれた若い先生たち

 4年間1つの中学校で勤めたあと、初めて違う中学校に異動しました。前述の価値観の中で自分自身も頑張ってきたので、少し自信もありました。新しく務めた中学校は、校長先生の想いで先進的な学びの実践を導入していたり、20代前半の若い先生も沢山いました。

 最初、私がその学校に行った時、正直、「緩い」と感じたのを覚えています。若気の至りでたまに生意気なことも言ってただろうなと今振り返るととても恥ずかしいです(笑)

 「緩い」というのは、一言で言えば、生徒たちを縛るような雰囲気が前任校に比べてなかったということです。それはとても良いことなのですが、当時の私の価値観では、あまり良いとは感じませんでした。

 ですが、その学校の子どもたちの明るい表情や、楽しそうに学校生活を送っている姿、色んな事を色んなシチュエーションで発信する姿を見て素直にとても良いなと思いました。そして、それをもたらしていたのは、先生方の子どもたちへの接し方でした。

 特に、20代前半の若い先生方は初めて担任をするという方も多くて、すごく大変だったと思います。それでも、何かあったときやそうでないときも子どもたちに寄り添って、子どもたちと対等に意見や考えを尊重しながら、道筋を示してあげる…とうか、一緒に考えているように見えました。それは、時間がかかることでもありますが、子どもたちと先生の信頼関係が強くなっていくことを感じました。

 そして、若い先生方がそんな振る舞いをしている背景には、ベテランの先生も若い先生方に対して、対等に、そして考えなどを尊重しながら接するという環境もあったと感じました。

 私にとっては、ある意味今までの常識が覆されるというような経験になりました。ここから、数年かけて、私自身も変わっていけたのですが、そのきっかけをくれたのは、このときの若い先生方です。

「対等」である振る舞いは、信頼関係を築くし、それが子どもたちの力をさらに引き出すなと感じました。

「恐れ」や「不安」の感情はよくない⁉

 私が、対等でない振る舞いをしていたとき「恐れ」や「不安」の感情が湧いてきていました。ということは、そのような感情が湧いてきたら押し殺してなるべく前向きな感情が湧くようにしたらよいのでしょうか?

 答えはNOです。まず、前提として、感情自体に良いも悪いもありません。自分が快いと感じるか不快に感じるかです。そして、感情はコントロールするものではなく、自然と湧いてくるものだと考えています。どちらかというと、自分がどんな思考のときに、どんな感情になることが多いか自分のパターンを認識することの方が大事かと思います。この辺は「それ感情のコントロールじゃん?」とか色々とあると思うので、またの機会に述べることが出来ればと思います。

 「恐れ」や「不安」の感情自体は不快には感じるかもしれませんがその感情自体が悪いとかはなくて、それをどう活用するかが大切です。

 教員をやっていた最初の数年は前述のとおりその感情から、とにかくルールを守らせようなどの思考になっていました。だから、ときに、強い言葉で言うこともありました。今の私が当時と同じ状況になったら

感情

思考

価値観(なぜそのような思考になるのか)

 

 このように、同じ感情でも活用の仕方が変わってきます。むしろ、その感情のおかげで逆に色んなことをキャッチできたり、さらに信頼関係を築くきっかけになりそうなことが沢山あります。それは、ベースに上記のような価値観があるからでもあります。

「対等でない」振る舞いがエスカレートすると…

 対等でないという価値観からそのような振る舞いがエスカレートしていくとどうなるか。教育現場では、それが体罰や暴言にあたると思います。まだまだ報道されることもあるこの問題の本質というか、根源はここにあるとも思います。「対等である」意識があれば、そこには立場が違ってもリスペクトがあります。「対等である」振る舞いは、言い換えれば、「すべての行動や言動にリスペクトがある」ということでもあります。その「対等である・リスペクトする」これが、今以上に当たり前に教育現場にもっと広まっていくと、体罰や暴言といった問題はもちろん、他の問題の解決にも繋がっていくと感じました。

 DAIJOUBUでの活動や自分自身の教育活動を通して、改めてすべての子どもたちが「だいじょうぶ」と思える世界を実現できるように1つ1つできることを行っていこうと思いました。

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