自分の軸で世界を捉える方法
こんにちは。大学生インターンのさきちです。
最近忙しくしすぎてEQ筋が鈍っているのを感じていました。EQ筋が鈍っていると、「自分に素直になることが大事だっていうことは理解してるんだけど、それってどういうこと?どうやるんだっけ?」状態になってしまいます。しばらくその状態にずっと陥っていて悩んでいたのですが、最近大学生活の中で、改めて「あ、こういうふうにやってたかも」と気づいた経験があったので、それについてお話ししたいと思います。
体験を言語化する
以前コラムで紹介したことがあるのですが、私が通っている早稲田大学に「体験の言語化」という授業があります。15人程度の少人数のクラスで、履修生が「自分の心に引っかかっている体験」を持ち寄って、思い起こし、その体験を改めて捉え直す中で、個人の体験を単なる個人的な経験ではなく、社会の課題に結びつけ、「自己を社会に文脈化する」思考プロセスを学ぶ授業です。詳しくは以前のコラムも一緒に見ていただけたら嬉しいのですが、簡単にまとめると、自分が今までの人生の中で強い違和感を抱いた経験や、モヤモヤした経験を受講生それぞれが持ち寄って、そのときの自分の感情と相手の感情を多面的に掘り下げていき、最終的には、どういう価値観があったからこそその体験にモヤモヤしたのか、その価値観はどのような社会的な力によって自分の中に内面化されてしまったのかということを考え、自分と社会との接点を見つける、という授業です。私はこの授業を大学1年生のときに履修していて、今はTeaching Assistant(TA)という立場として受講生のサポートをしています。先日春学期最後の授業を迎えたのですが、今回もたくさんの気づきがあったので、印象に残った受講生の発表について、加えて自分の気づきについてお話ししたいと思います。
もともとそういう人だから、分かり合えなくて当たり前?
今学期の授業でとても印象に残った受講生が1人いました。もちろん他の受講生も良い発表をしてくれていたのですが、自分の中で何か腑に落ちた感覚を持ったんだろうな、ということが客観的にもよくわかる方が1人いたのです(ここではXさんとします)。
プライバシーの関係もあるので詳細には話せないのですが、Xさんは、最近仲良くなり始めた友達と話していたときに、その友達が自分の価値観とは相容れないような話を、さも当たり前かのように話していたことにとてもモヤモヤしたそうで、その場面を切り取って、深掘りする体験として持ってきていました。体験を選んだら、まずは自分の感情を多面的に深掘りしてみて、その次に、簡単な演劇などを通して相手の立場や感情にも目を向ける、というプロセスを踏んでいくのですが、Xさんは「そういう価値観を持っている人がいるなんて怖い!嫌だ!」ということは自分自身で気づいて、何度も話してくれていたのですが、相手の立場になってどんな気持ちだったのか寄り添ってみましょう、という時間になると、相手の価値観があまりに受け容れ難いものだっただけに、「うーんそれはもうそういう人だから…」「あまり深く考えずに悪気なく言ってたはず。深い感情とかはなかった気がする…」というところで止まってしまい、先に進めず困っていました。私自身も、境遇や価値観がXさん側にとても近かったので、「そういう人っているよね…」というところで完全に思考停止。そういう人とはあまり関わりたくないし、うまくやり過ごしたい、というスタンスにも完全に共感してしまい、全くアドバイスできず(笑)似ているということは安心できるしいいことだけれど、こういうときに困ってしまいますね。
思考を自分軸に戻す
しかし、その後授業の先生や、周りの違う境遇を持っている受講生を話しているうちに、色んなことに気づいていきました。例えば、「怖い」「嫌だ」という感情にも、種類があるということ。例えば、その人と同じコミュニティにいることで、自分も同じような考えに染まってしまうのではないかという怖さ、自分も他者から同類だと思われてしまうのではないかという怖さ、もしかしたらそういう考えが社会の中では多数派なのではないかという怖さ、もしそうだったとしたらこれから社会はどうなるんだろうという怖さ。何を感じたのかということだけではなく、「どの部分」に、何を感じたのかということまで考えてみると、初めて感情が自分のものになったような感覚になるような気がしています。異なる価値観に出会ったときに「え、あの人怖い〜」「ちょっと嫌だな」と思うことはあると思いますが、それは自分の感情を言語化しているというよりかは、相手にラベル付けしている感覚に近いのかもしれません。脅威的な存在には、名前をつけて、自分との間に境界線を引いてしまうと楽だから、私もよくそこまでで思考が止まってしまいがちです。でも、そこから一歩踏み込んで、なぜ、どの部分に、何を感じたのかまで掘り下げてみると自分がどんな価値観を持っているのかわかってきます。「この人が◯◯な性格で△△な言動をしたから私は嫌悪感を抱いた」ではなく、「私の中にこういう価値観や軸があるから、この人の△△な言動にモヤモヤしたんだ」というふうに考えると、思考が自分軸に戻ります。批評家ではなく、実践家になれるというか、そういう感じです。
相手の境遇にも想いを馳せる
Xさんも、周りの力を借りて、具体的にどの部分に何を感じたのかを深掘りしていき、徐々にそのときの気持ちに名前をつけられるようになっていくのが分かりました。そして、「私っていつもこうだから」「あの人はこういうタイプだから」というところではなくて、「私がこういう感情を抱いたのは、こういう価値観を持っているからで、その価値観を持ったのはこういう背景があって…」「そういえばあの人はこういう境遇があったな。そういう境遇で過ごしたらこういう価値観を持つかもしれない」というところまで深掘りが進みました。そうすると、違う価値観を持っていてもあまり相手が怖く見えなくなります。「あ、なんだ、そういう境遇や背景があったからそういう価値観を持ったんだ。その人が持っている価値観が良いか悪いかとかではなく、それはその人が選んだものじゃなくて、社会の力や周囲の環境によって抱かされたものなんだ」ということがわかるからです。ずっとモヤモヤしていたXさんは、最後の授業にはとても腑に落ちた柔らかい表情をしていて、自分の中でたくさん考えて整理をつけたんだということが私から見てもよく分かりました。最後に、Xさんの話を聞いた先生が「本当に友達だと思っているなら、今度からは自分の考えを伝えないと。とりあえず「そういう考え方もあるよね〜」と言ってその場をやり過ごすんじゃなくて、伝えてわかってもらえなくても、あなたがどういう価値観を持って生きているかを表現することに意味があるでしょう。」と言っていたのにも強く心を打たれました。その人はもしかすると自分が今持っている価値観以外を知らないのかもしれないから、対話の余地があるなら挑戦してみることが小さくても社会を変える一歩に繋がるかもしれない、ということでした。
Xさんの様子を見ていて、私もよくこんなふうに試行錯誤していた気がする、ということを久々に思い出しました。息つく暇もない日には、モヤモヤしている時間すらもったいない!とにかく先に進むべし!となってしまうのですが、こんなふうにゆっくり、誰かに聞いてもらいながら、向き合う時間が必要だと感じた経験でした。
早稲田大学法学部で家族法を専攻する大学生。「体験の言語化」という授業のTAや、防災教育ボランティアの活動を経て、自分の感情を言葉にすること・他者と対話をすることの重要性に気づき、DAIJOUBUの活動に参加。