他者との関わりについて
こんにちは!そして、あけましておめでとうございます。現在、法学部の辛い定期試験と日々向き合っている大学3年生のさきちです。
私の通う早稲田には、「体験の言語化」という授業がユニークな授業があります。15人程度の少人数クラスで、履修生が「自分の心に引っかかっている体験」を持ち寄って、思い起こし、その体験を改めて捉え直す中で、個人の体験を単なる個人的な経験ではなく、社会の課題に結びつけ、「自己を社会に文脈化する」思考プロセスを学びます。
「サークルでこんなムカつくことがあった!」「彼氏にこんなことを言われて悲しかった!」「親にこんなこと言われてモヤモヤした!」とか、選ぶ体験は本当に自由で、そこからそのときの自分の気持ちと相手の気持ちを多層的に掘り下げていって、自分の中に内面化されている価値観や、どんな社会的圧力によってその価値観が自分の中に内面化されてしまったか等々を考え、自分と社会とのつながりを見つける、という授業です。私はこの授業を大学1年生のときに履修していて、今はTeaching Assistant(TA)として受講生のサポートをしています。目指しているところは「自己を社会に文脈化する」というところですが、そのプロセスで自分の気持ちを言葉にしたり、相手の立場を想像したりするので、すごくEQ的だとも思っています。元々、この授業を履修していたときに「自分の感情に言葉を与える」ということにすごく興味を持ち、自然とEQにも関心を抱くようになった、という経緯があります。
今はちょうど学期末で、今回アシスタントをしていたクラスも先週最後の授業を迎えました。そのときに、印象的な言葉がクラスの中にたくさん溢れており、それをコラムで紹介したいなあと思っていました。
最後の授業だったので、この授業を受けて何が変化したかを全員で発表していたのですが、受講生の一人が、「言語化の前には傾聴があるのだと気がついた」というふうに言いました。自分の話を傾聴してくれる人がいてはじめて、自分が体験を言葉にすることができる、という意味です。また別の学生は、「自分の言葉を紡ぐには、他者が要る」とも言っていました。これは、価値観の違う他者の存在があってこそ、自分の価値観が相対化され、自分を表現できる、というニュアンスの言葉でした。
自分のモヤモヤした体験を話すので、たくさん自分の弱いところやずるいところを開示しなければならないのですが、それを対等に受け止めてくれて、また、それに対して自分のことを開示し返してくれる他者がいるとき、人は勇気をもって自分のコンフォート・ゾーンから出ることができるのだと、その言葉を聞いて改めて感じました。
また、受講生の言葉を一通り聞いた後、授業の担当教授が、「自分と向き合って、自分の中から言葉を紡がないと、こうしたら褒められるからとか、誰々がこういうからとか、そういう価値観にしがみつくことになるのよ」と言っていたのも印象的でした。多分その場にいた学生全員に刺さっていたと思います。周りの友達に合わせたり、親に従ったりしていれば、何かあっても他人の責任にできるので楽です。でも、きっとその場にいた(私含め)全員が、そんな楽に生きていたいという気持ちと、自分の価値観で生きたいという気持ちとの狭間で揺れているんじゃないかなあと感じていました。
すごく雑なまとめ方にはなってしまいますが、そんな悩める時期にある大学生にも、EQが必要なんじゃないかと思う、そんな経験でした。
早稲田大学法学部で家族法を専攻する大学生。「体験の言語化」という授業のTAや、防災教育ボランティアの活動を経て、自分の感情を言葉にすること・他者と対話をすることの重要性に気づき、DAIJOUBUの活動に参加。