DAIJOUBUコラム~TeaTimeクラス『文化』より~
(参照元:Time Warp | King’s Cross escalators with a fisheye lens. | Torsten Reimer | Flickr )
今年の8月、DAIJOUBUで定期開催されているteatimeでファシリテーターを担当させてもらいました。最近、自分が考えていることをテーマにしようと思い、「文化」というタイトルにしてみました。みなさんは「文化」と言われると、どんなものを想像するでしょうか?
文化は身近?
今回のteatimeでは、ウェルビーイングの専門家である内田由紀子先生の著書「これからの幸福についてー文化的幸福観のすすめ」からインスピレーションを受けて、文化心理学者の世界で使われている「文化」の定義を切り口にして皆さんとお話してみました。
もともと「ウェルビーイング」というテーマを勉強するためにこの本を手に取ったのですが、読み進める中で、「文化」は私たちの身近にあるような習慣そのもの、と書かれていた箇所が気になりました。別の箇所では、「ある集団内に社会・集団の歴史を通じて築かれ、共有された、価値あるいは思考・反応のパターン(北山忍(1998)『自己と感情:文化心理学による問いかけ』)」という定義も書かれていました。たとえば、あいさつの仕方にも人への好意の伝え方にも、国や地域の文化によって違いが出てくるよね、というようなことが書かれていました。確かにそう言われてみれば、日本で暮らす私はあいさつの時に握手やハグはしませんし、「月がきれいですね」「好きな食べ物は何ですか?」といった表現で「あなたのことが好きです」と伝えようとするのは、時代の価値観や文脈などの背景を共有できていなければ伝わらない表現方法だと思います(個人的には、こうした婉曲な伝え方にも味わいがあると感じます)。「ん~、文化ってそこまで身近にある感覚はなかったけど、言われてみると確かにそうかなぁ。」とじわじわ分かってくる感じがしました。
自分一人で考えていたこと
文化を共有する集団にもいろいろな大きさがあります。家族、会社、国や地域、それぞれ考えてみると違った視点が出てきます。
例えば、とある国ではポジティブな感情を感じていることを見せることが相手への配慮を示す「普通のやりかた」だとします。その国から来る人を心から歓迎したいと思った時には、「今日が楽しみで仕方なかったよ!あなた方と会えて、私たち一同とても嬉しいよ!」といった表現をすれば気持ちが良く伝わったのに、「遠路はるばる、お足元の悪い中をお越しいただきありがとうございます。」といった日本的な表現にすることで、相手への気持ちが何割引かで伝わってしまうかもしれません。ポジティブでストレートな表現が日本人には気恥ずかしいかもしれません。でも、どうして、恥ずかしいと思ってしまうのでしょう?
とある学校では、一日の始まりも終わりも「ごきげんよう」と挨拶を交わします。その集団に入っていない人から見ればなんとなく「変なの~」という気持ちになるお作法です。でも、それって本当に変なのでしょうか?私の慣れ親しんだ習慣とは違うというだけかもしれません。
例えば私の実家では、友達を家に呼ばないという家庭のルールがあったわけではないのですが、家に友達を呼ぶことを両親があまり好まないことを子供ながらに感じていました。大人になった今、自宅に人を招くことに対してなんとなく自信を持てていない自分がいたりするので、無意識に自分に根付いてしまっている考え方や習慣は、他にもまだたくさんあるんだろうな、と思っていました。
teatimeを通じての発見
teatimeでは、「カルチャーギャップを感じたとき」、「身の回りの文化の好きなところ・嫌なところ」という2つのお題を設定して、参加された皆さんのお話を聞かせてもらいました。
日本は交通ルールをきちんと守っている、手の込んだ見た目のかわいいお弁当とアメリカ的なシンプルな弁当の違い、勤務する学校によってその学校の文化がかなり違う、といった違いに関するお話が出てきました。「身の回りの文化の好きなところ」については、一つ一つの料理に意味を込めているおせち料理、助けてくれる周りの人の「さりげなさ」などのお話が出てきました。逆に「嫌なところ」については、子供に重たい思いをさせる学校のランドセル文化や高価な制服に関するお話が出てきました。
話をしていく中で、私が聞いていて素敵だなと思った点を2つ紹介します。1つは、どの文化にもいい面とわるい面があって、どちらの面も現れるものだから、他の文化も知っていて、その上でいいところを自分が使っていくのがいいよね、というお話が出てきた時でした。自分が身にまとっている文化に固執するのではなく、違う文化と交じり合って変化するイメージが自然な流れで出てきたことに、私もそうありたいなぁと思いました。
もう1つは、最近はやっているアーティスト「新しい学校のリーダーズ」のお話が出てきた時でした。彼女たちは、日本のトラディッショナルな制服を着ていながら、「個性や、自由で、はみ出していく」を自己紹介にしています。日本の学校の制服文化は、見た目を揃えることで子供たちの個性の発揮を尊重していない文化ではないか、と何となく思っていたのですが、制服によってある意味抑圧された環境の中で「個性や自由ではみだしていく」と発信する姿は、その場の文化に流されずに動くこともできる、というメッセージがあるようで格好いいなと感じました。
teatimeが終わってから、そもそも日本では学生服やランドセルがどうして誕生したのだろうと疑問に思い、「制服の歴史」や「ランドセルの歴史」をインターネットで検索してみました。それぞれ、当時の時代背景の中で、子供たちにとって良いものを提供しようという試みであったことも分かりました。今の時代にあっているかどうかはいろいろな意見があると思いますが、身近なものの歴史も意外と知らないんだなぁ、という発見にもなりました。
便利なときもあるし、不便なときもある
なにかしらの共通の「文化」が身の回りの人・組織と共有されているとき、コミュニケーションがスムーズに進むし、「文化」に乗っかる方が便利に感じることがあります。ただ、自分の向かいたい方向と身の回りの「文化」が違う方向を向いていた時、うまくいかないなぁ、と不便を感じることもあると思います。
今回の「文化」をテーマにしたteatimeで、私は1つのモチーフとして、目には見えないエスカレーターを想像しました。それに乗って生活しているとある方向に流していってくれるのでとても楽だけど、そのエスカレーターに乗らないこともできるし、別のエスカレーターに乗ることもできる、そういう「文化」との付き合い方もあるよね、ということです。身の回りには、社会が作ったエスカレーターもあるし、自分自身がこれまで生きてきた中で作ってきたエスカレーターもあると思います。
自分の考え方や感じ方を見つめ直したり、身の回りの社会を見つめ直したりする力は定期的にEQを学ぶプロセスの中で磨かれると思っていて、今回のteatimeも自分一人では気付くことができない見方・考え方に触れられるとても楽しい時間でした。ファシリテーターをする機会を与えてもらったことに感謝しています。
DAIJOUBUアレンジャーズ (https://daijoubu-eq.org/arrangers) のメンバーが書いた記事です