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対話から生み出されるもの

2月下旬に、ず~~~~っと行きたかった東京・竹芝にある《対話の森ミュージアム》に行ってきました。
コロナ禍を過ごし、対話することの重要性を痛感したからです。
現在、学童保育で行っているEQのクラスで、子ども達ともリアルに体感できるものはないだろうか…と考え、
色々と模索している中で、《対話の森ミュージアム》の存在に辿り着いたのです。
対話の森とは、世代。ハンディキャップ。文化。宗教。民族。世の中を分断しているたくさんのものを、
出会いと対話によってつなぎ、ダイバーシティを体感するミュージアムです。

今回、この体感を通して、目が見え、耳が聴こえ、言葉を話せることに対し、色々な可能性が秘めていることを
考えさせられました。

対話の森ミュージアムでの体感と気付き

対話の森では、ダーク(暗闇)の世界とサイレント(音のない)の世界を体感できますが、
今回は、サイレントの世界を選択しました。

まず、ルールとして、
①話さない(喉に鍵を使いロックをかけました)
②音のない世界を満喫する為に、ヘッドホンを装着
③自分の体のみで参加 (持ち物は入場と同時にロッカーへお預け)

参加者全員でルールの確認を行い、いよいよスタートです。
聴覚障害者のアテンドに案内してもらいながら、テーマが掲げられた部屋を順番に回り、
まわりの音が全く聞こえない状況に少々不安を抱きながら、案内するアテンドに全神経を集中させました。

《正解がないから、間違いがない》という言葉に、心理的安全性が確保され、それまで感じていた緊張感が
少しずつ解かれていくようでした。全8つの部屋では、手のダンス、サイレントゲーム、手話クイズ、出されたお題をフレームの中で表現する、箱の中に入っている物と状態を相手に伝え、箱の中身を同じにするゲーム、などなど
最後の部屋では、ヘッドホンを外し、体感した内容に対する感想や気付きを言葉を用いて共有しました。

《参加者の感想》
・対話は信頼のためのステップ
・愛コンタクト
・対話を諦めない
・対話こそ想像力の源
・わたしとあなたの真ん中をみつけること
・己を知り、相手を知ること

この体感を通して、普段の生活で用いている言葉を使わず、聞こえる耳を封じた時、年代、性別、
社会的地位さえも関係なく、みんなが対等になる。そして、対等になった時に、たとえ初対面であっても
《この人は分かってくれる》という揺るがない信頼関係が生まれることを感じました。
聞こえないものを聴こうとし、見えない部分を見ようとする行為、これが対話に必要なものだと
気付きました。それは、見方が変わるとあり方が変わるという実感でした。

相手の目を通して自分の人生を見つめる

対話の森ミュージアムに行きたかったもう一つの理由、それは思春期の息子との関係性を
考えてみたかったからです。音が遮断され、言葉が使えない、マスクで相手の表情が見えないという、究極の状況に身を置くことで、参加者とのコミュニケーションを図るために、相手の目を見、自分から見える全てに
心と意識を向ける中、この行為を息子に行っていただろうか・・・?という疑問が生まれました。

《人の話をどの程度のレベルで聴いてきたか?》
特に近い存在である息子の話に対し、相槌を打ちながら、聞くふりをしていたこと、自分が欲しい答えを
会話の中で見つけ、部分的に選択しながら聞いていたことに気付かされました。
言葉や思いとしては、《寄り添いたい》がありましたが、行動に反映されていなく、
蓋を開けてみれば、自分の都合の良さが存在していたのです。

そのようなことを感じながら、改めて息子の目を見た時に、息子の瞳に映る自分の姿がありました。
何か心地良くない出来事が起こる度に、思春期だから…〇〇だから…と一括りにしていたことを思いました。
人との関係性において、与えられている時間の瞬間、瞬間をもっと意図的になるために、
人の目に映る自分の姿を通して、今の自分の状況を素直に受け入れてあげたいと感じました。

対話は、相手の大切さに気付く行為

対話が必要だと感じる相手に対して、自分がどのように思っているかを自問してみようと思います。
自分の思いや思考を一旦遠ざけ、相手との関係で、自分の立ち位置を知り、自分が心から望むものの
イメージから、そこにどのような橋が掛けられるかを考えてみる。

対話の始まりは、相手の大切さに気付く行為です。
これにより、相手の見地に立ち、相手の立場から物事を眺め、相手が見ている世界を見ることで、
相手の気持ちを感じとる。このプロセス全体が深い対話へと繋げられる。
そして、改めて自分自身の感情と思考をブレンドした時に、単に相手を賛同するだけではなく、
相手を尊ぶ思いが加えられ、相手への深い理解に繋がる。

この学びに繋がった時に、どこかで引っ掛かっていた会話を思い出しました。
『人にはキャパシティがあり、できないことに対し、やってという言動は良くない。時には良い意味での諦めが
必要だという』という内容です。これはある意味分断ではないか⁈とモヤモヤしていました。

しかし、相手を大切に思い、理解を深める対話を用いれば、《諦めなくて良い》という安堵感を得られました。
そして改めて、学びには新たな発見があり、これが学びの醍醐味だと思いました。

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