ハノイで起きた珍事件から見えたもの
こんにちは!ベトナムの前川です。
ハノイは半袖で過ごせる日がだんだん増えてきました。コロナの影響を受けて何もイベントがなかった昨年からは一変し、学校や地域で様々なイベントが開催され、盛り上がりを見せています。また、日本は年度末ということもあり、本帰国する人も多く、送別会が重なっているここ最近です。
さて、私自身、ハノイに来て一年と数ヶ月になるのですが、引っ越してきてからしばらく経った時にとても面白い事件が起きました。
ハノイで起きた珍事件
それはカンカン照りの夏の日。晴れていたと思ったらあっという間に雲行きが変わり、ザーッと大雨が降ってきました。スコールです。スコールについては周りの人から話を聞いて知っていたので常に折り畳み傘を持ち歩いていた私は、慌ててそれを取り出して開きました。その瞬間に事件は発生。なんと、後ろからベトナム人のおばさんが私の傘に入ってきて「ちょっとそこまでだから入れてちょうだい!」というのです。(ベトナム語だったので正確にはわかりませんが、ジェスチャーや話し方でそんな風に言っていると感じました。)もうこれには笑いが止まりませんでした。私は快諾し、一緒に歩き、そして50mほど歩いたところで彼女は「ありがとう!(Cảm ơn!)」と言って、そそくさと去っていきました。
この時、私の心も中は驚くほど温かい気持ちと感動でいっぱいになりました。知り合いでもない、ただの通りすがりの人に、ちょっと助けてと気軽に助けを求めるその姿勢に、美しさすら感じたのです。
迷惑をかけない文化
私たち家族は海外駐在生活が今年で13年目になります。親や兄弟姉妹や親族はいつだって海の向こう。頼れるのは仲間や友人、隣人なんですよね。
でも私が友人や隣人に何か助けてもらおうとすると、夫はよく「迷惑だからお願いするのはやめたほうがいい。」と言います。無理してでも自分達でどうにかする、それができないならお金を出して何らかのサービスを利用して解決させる、という方法を選ぼうとします。
幼少期、私の父も、母が駅までの足がなく困っていた時にお向かいの家の人に車を出してもらおうとすると「迷惑だからタクシーを呼びなさい。」と母に言っていたのを今でもよく覚えています。
それらに対していつも違和感を覚えていました。
本当に迷惑なの?
助けてもらうことはダメなことなの?
誰かが助けを必要としている時、自分が頼りにされたり、助けを求められたら迷惑に感じる?
もちろん、時と場合とその人との関係性が大きく関わってくることは確かではあるものの、私たちは必要以上に「迷惑だから」と思い過ぎではないかと感じていました。
そして起きたハノイでの珍事件。
「迷惑だから」と言って、人に頼ることを拒む人が多い中で、私の傘に入ってきてくれたあの見ず知らずのベトナム人のおばさん。
おそらく彼女だって考えたと思います。そして、傘を持たずに大雨が降る中で、行く方向が同じだった私の傘に入ることは、一線を超えない程度の小さな迷惑だと判断したのでしょう。
EQの発揮
私自身、困っている人や助けが必要な人がいれば基本的に「助けてあげたい」と常日頃から思っています。そして夫もそれは同じですし、多くの人もそうではないでしょうか。でも、いざ自分が頼る側になると「迷惑だからやめたほうがいい」となる。このギャップに対して、EQの出番ではないかと感じました。
誰かの感情を想像するとき、「人に迷惑をかけてはいけない」「相手は迷惑に思うに決まっている」という過度な思い込みは、その想像をブロックすることになるのではないでしょうか。むしろ、親しい人が困っている時に自分が頼ってもらえず、水臭いなと感じ、ちょっとした溝ができてしまう可能性だって大いにあります。(そんな経験、私にはたくさんあります。)
相手の状況や気持ちに寄り添いつつ、思い切ってその懐を信じて頼ってみたり、距離をつめてみることもまた、EQの発揮だと感じました。
私の傘に飛び込んできてくれたおばさんがとった行動まではとれないかもしれません。でも、相手は自分が思うより大きな心で受け止めてくれるかもしれない!と信じて行動してみたいんです。それで相手に迷惑がられたら、それも学びですね(笑)。そしてその分、自分ができるGIVEは日頃から周りにたくさん届けていきたい。そんな「あり方」もまた気持ちがいいかもしれません。
香港、サンフランシスコ、シアトル、ハノイと引越しを重ねながら3人娘の子育てに奮闘中。
子育てのつまづきをきっかけにコーチングに出会い、さらに、子供たちと向き合う中でEQの大切さを確信。
現在、コーチングでより良い親子関係を!EQで子供たちの生きる力を!を目指して
Mother’s Journeyを運営し子育てについて深め合う場を作りながら、
自らも日々学びながら子育てを楽しんでいる。