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物事の習得に必要な、3つの過程

私が最初にEQを学ぶ時、この資格講座に出れば何かが身につく、と思っていました。EQという概念について学び、EQ検査結果の読み解き方、伝え方のテクニックを身に付け、資格というお墨付きまでいただける。実は瞑想を学んだ時も同じでした。100時間のコースが終わったころには私はどんな風に変わっているんだろう、、、なんて淡い期待を抱いていました。

でも、お察しの通り、EQも瞑想も、それぞれのクラスを終えた時、私には「知識」がくっついただけで、私自身はまだほとんど何も変わっていなかったのです。

聞思修(もんししゅう)

仏教を学ぶ中で出会ったものですが、皆さんは「聞思修」という言葉をご存知でしょうか。

これは教えを習得する上で必要な、3つの過程を表しています。
まずは素直に「聞」く、そしてそれをうのみにするのではなくてしっかり考えてみる(「思」)、そしてそれを実践する(「修」)。

私たちはそもそも素直に聞くこともできなかったりします。自分が関心があるところ、同意できるところだけを聞いてほかは流してしまったり、先入観のフィルターを通して聞いていたり、聞いている途中で別の自分の考えに結び付け、展開させてしまったり。

そして、話のうちの自分の考えと合うところ、理解できるところだけを「わかった!」なんて言ってわかった気になっていたりするものです。

「思」はどうでしょうか。
専門家や権威がそう言っている、この本にそう書いてある、尊敬する〇〇さんが言っている、と言ってうのみにしてしまうことはないでしょうか。この「思」という過程は、自分が得た知識についてよく考え、自分に馴染ませ、心に落としていく過程です。これができない限り、知識はずっと頭の中に残ったままで、「修」に向かうエネルギーがわきませんし、知識を誰かに伝えようとしても「○○さんがこう言っていた」というぐらいにしか話せず、自分の言葉で伝えることができないかもしれません。

「修」では「思」によって自分事となった知識を実践して、血肉とし、体現していく過程です。知識が知識として頭に残っている状態では、その知識は何の用も足していないことになります。実践し、その教えを体現して初めて習得できた、と言えるわけです。

しみ込み、滲み出る

冒頭の話に戻ると、この時私は「聞」を少ししたぐらいでしかなかった(「聞」ですら十分できていなかった)というわけです。EQという新しい知識をほんの少し身に付けましたが、それを自分と結び付けることがまだ全然できていなかったのです。思えばそれまでの私は、テストや受験勉強の、単に教科書や参考書の知識を(うのみして)覚える学習の延長線上ですべてを身に付けようとしていたかもしれません。

EQってじわじわわかってくる、というのはDAIJOUBUメンバーでもよく話になりますが、本当にそうです。それは得た知識が自分とリンクし、じわじわ自分のものになる「思」の段階。他者の話を聞きながら、自分の考えを振り返って再構築する、という意味でDAIJOUBUのクラスもこの良い機会です。「ああ、これってそういうことか!」と腑に落ちたり、点と点がつながることがよくあります。

そして最後に欠かせないのが、その気づきを日々の生活で実践していくこと。

腑に落ちる体験はとてもすっきりするものですが、そこで満足してしまったり、そんな風にわかっていても、つい習慣的なパターンに陥ってしまうことも多いものです。実践してみてもうまくいかないことも多々。実践も、続けていくことでようやくその行動や態度が自分になじみ、自分のものとなって、最後は自然になるのかもしれません。EQはしみ込み、滲み出てくるものなのだなぁ・・・(遠い目)。

そんなわけでEQの習得への道は永遠です。

以前まんぼさんがコラムで「人間とは永遠に不完全な生き物」であり、「人間は、一生をかけて学んでいく」ということを書かれていましたが、今こうして書いていると、その言葉がまた心に響いてきます。

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