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自分は「だいじょうぶ」

 こんにちは、森川智子です。

 私はDAIJOUBUに立ち上げメンバーとして参加させていただいた後、現在はマレーシアのクアラルンプールに住んでいます。この度DAIJOUBUで特別クラスを開催させていただくことになったので、この機会にクラスのテーマでもあり、私にとっての大きな支えとなっている、瞑想や仏教について少しお話しできればと思います。

 私の学んでいる瞑想はチベット仏教をベースとした瞑想です。もともとこれをアメリカで広めたチベットの高僧は、出家しない私たちのような一般人、それも西洋人あるいは西洋的な価値観の影響を受けた人々が、いかに日々の生活、生き方に教えを反映させるか、という視点で伝えられました。そのため、アメリカでも実際に多くの人が実践しているように、現代の、普通の、私たちが、仏教徒であろうとなかろうと、誰でも取り入れられる内容になっています。

 今日はその瞑想において、私が最も好きな点をご紹介したいと思います。

自分でできる

 私の先生が以前「誰もあなたのことは救ってくれません。でも救われる必要もないのです」とおっしゃいました。

 私たちは何か問題が生じた時、どうしたらいいだろう、と周りの人に聞いたり、ネットを検索したりして、あたふたし、ぐらぐら揺れることがあります。

 でも瞑想を通して自分の心を学べば、自分に対処できる力があることに少しずつ気づくようになってきます。問題の多くが、結局は私たち自身の心の反映だからです。もちろん、すぐに何事にも動じなくなるなんてことはありませんが、それでもこのことに気づけば気づくほど、揺れても戻るべき場所がわかっているという、内側の「だいじょうぶ感」が強くなっていくのです。

誰もが根本は問題がない

 仏教では、みな根本には良い性質を持っていて、何も欠けているものはない、と考えます。私たちは普段、自分にはこれが足りない、もっとこうならなきゃ、などと考えたりしますが、そうやって何かになろうとしなくても、実際はすでにみんな内側に持っているのです。それを知識としてだけではなく、体感していくために瞑想をしていくのです。

 自分には問題は何もなく、様々な問題も対処していける — もしそんなふうに感じられたとしたらどうでしょうか。そんなふうに「自分はだいじょうぶ」、と感じられたら。

 実際にはそんなふうに感じられるようになるまでには継続した練習が必要で、私もまだまだその途中、いや超ビギナーです。でも、そうなのかもしれない、と垣間見る瞬間を持つごとに、その感覚が少しずつ、少しずつ育っています。

EQと瞑想

 EQと瞑想には共通点がたくさんあると思っています。特にDAIJOUBUの伝えているSix SecondsのEQのフィロソフィーにはたくさん共通するエッセンスがあるように感じています。「叡智は自らの中に」というフィロソフィーはまさに今日書いたことと重なると思います。私たちはすでに内側に持っていて、それを発見していくだけなのです。

 瞑想は「無になるもの」と考えて無理だと思ったり、スピリチュアルなイメージで拒絶反応を感じたりする方もいらっしゃるかもしれません。でも私がここで書いている瞑想はそのどちらでもありません。自分を知っていく瞑想なのです。10月26日(土)午前9時半~、クラスを開催していますので是非体験しにお越しください!

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