中途半端さを、受け入れる

こんにちは!久しぶりの執筆となりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。
我が家は昨年、3年半住んだベトナム・ハノイに別れを告げ、常夏の地に引っ越してきました。一年中、ワンピース一枚で歩けるこの地は自分に合っているなと感じています。
さて、その引っ越しを機に子供たちの教育も大きく変化しました。それまではインターナショナルスクールに通っていた我が子たちですが、大きく舵を切って日本人学校に通い始めました。
アメリカ現地校、インターナショナルスクール、そして日本人学校を渡り歩いてきた我が子たちと伴走しながら心の中にあったもの、それは「中途半端さとの対峙」。そして最近行き着いたのが「その中途半端さをまるっと受け入れてみよう」という思い。今日はそんな「中途半端さを抱きしめる」ことについて綴ってみたいと思います。
0、一貫性のない環境で生きてきた我が子たち
前述の通り、我が子たちの教育/環境は右往左往と変動してきました。その時々で最善を考え、環境と子どもの様子を見て決めてきました。アメリカにいれば英語を軸としたアメリカ教育の中で、日本にいれば日本語を軸とした日本教育を進んでいったのだと思います。でも数年ごとに国を跨いで移動を繰り返す我が家は、その一貫性を全く持たずに進んできました。そして付きまとってきたのが「中途半端さとの戦い」でした。
1、言語面での中途半端さ
ネイティブのような英語があるわけでも、揺るぎない日本語があるわけでもない。どちらの言語でもうまく説明できずにいる我が子を見て、焦りが募りました。「言語力は思考力に直結する」と思うと怖くなり、つい「もっと頑張らせなきゃ」と子供を追い込んでしまった日もありました。特に非英語圏では、学校では英語(ネイティブ英語話者と外国語としての英語話者が混じり合う)、家では日本語(姉妹間は英語になったり日本語が混じる)、街の中はまた違う言語、という環境で言語に関しての不安は非常に大きかったです。
けれど、言語が中途半端であることは、裏を返せば「一つの言葉の枠組みに縛られない自由な感性」を持っているということではないか、とも思うようになりました。 一つの完璧な言語を持たない子供たちは、言葉に頼り切れない分、相手の表情やその場の空気を感じ取る「非言語的な察知能力」を研ぎ澄ませていける可能性があります。また、日本語でぴったりくる表現がなければ英語から、英語になければ日本語から、あるいはどちらでもない独自の感性から、彼らなりに一生懸命に「最適解」を探そうとする。それは、一つのレールの上の言葉をなぞるだけでは到達できない、多角的で柔軟な思考のプロセスかもしれません。完璧なバイリンガルという「完成形」を目指すのではなく、二つの言語の間で揺れ動きながら、自分だけの豊かな世界を構築していく。その不安定さこそが、実は新しい時代の創造性の種になるのではないかと感じています。
2、アイデンティティの中途半端さ
日本人なのに、日本在住の日本人とはちょっと感覚が違う。海外育ちだけど、現地の人のようにその国の人になりきれるわけでもない。パスポートは日本だけれど、日本の流行や「当たり前」の感覚を肌で知らない。
「どこにも100%属さない」という状態は、一見するとかっこよく聞こえるかもしれませんが、親である私はその曖昧さが、子供たちのアイデンティティという大切な土台を揺るがしてしまうのではないかと感じていました。
「この子たちの『帰る場所』は、一体どこなんだろう」
100%日本人でもなく、100%現地の人でもない。その「中間のグレーゾーン」を歩かせてしまっているのかな…と。
けれど、これも見方を変えれば「どこにいても、自分は自分として立っていられるしなやかさ」を育んでいるということかもしれないという思いに至りました。 特定の場所に依存しないからこそ、どんな新しい環境に投げ出されても、そこで自分なりに根を張る強さが備わっている。彼らにとっての「ホーム」は、特定の国や土地という物理的な場所ではなく、自分自身の内側、あるいはこの流動的な家族というコミュニティそのものであればいい。どこにも属さないことは、裏を返せば「どこへでも行ける」という自由を手にしているということ。そう考えると、アイデンティティの中途半端さは、不安定な足場ではなく、世界中どこへでも飛び立てる翼なのだと感じられるようになりました。
3、教育選択の中途半端さ
アメリカの一般教育、インターでのIB教育、そして日本教育。多様な教育を渡り歩く中で、この一貫性のない教育ルートで我が子たちの学びは成熟していくのだろうか、と不安に駆られることもありました。周りには、早い段階で軸を決め、「うちは日本での中学受験を見据えて頑張っています」「英語を軸に高校卒業までインターでいく覚悟です」といったご家庭も。その潔さがまぶしく感じることもありました。
しかし、この一貫性のなさもまた、別の側面から捉えれば「どんなシステムにも適応できるサバイバル能力と、異なる価値観を統合する力」を養っているということかもしれません。 一つの教育方針に染まりきらないからこそ、多種多様な学びのスタイルを「いいとこ取り」しながら、自分に合うものを選び取る視点が育ちます。ガッチリと決められたレールがないことは、変化の激しいこれからの時代において、むしろ強みになる。どんな環境でも「ここではこう学ぶんだな」と飲み込み、自分の糧にしていく適応力は、一貫性のある教育だけでは得難い宝物かもしれません。
4、中途半端さを極める
国が変わり、言葉が変わり、カリキュラムが変わり、友達が変わる…そんな落ち着かない環境の中で、子供たちは腰を据えて何かに没頭することはできないかもしれません。そして、それによって将来恨まれるかもしれないし、「ママ、なんであの時もっとしっかり決めてくれなかったの?」と言われる未来が来るかもしれない。
「ちゃんと決めてあげたらいいんじゃないの?」という声が聞こえてきそうですが、それを「しない」ことを決めたのです。だからこそ、そこには中途半端さを抱き締める覚悟が必要でした。
導かれた場所で、その時々の最適を選び、環境に応じて舵を切る柔軟さを持ち合わせながら、中途半端かもしれないけれど、様々な言語、環境、価値観に触れながら「自分」を構築していってくれたら…と思うのです。
むしろ家族みんなで「中途半端さを極める」ことにしてみようと。そこには意外と面白い未来が待っていそうな気がするのです。中途半端さは、角度を変えて光に透かして見てみると色鮮やかなグラデーションアートのように見えるような気がします。
この愛すべき中途半端な子供時代・青年時代を、いつか子どもたちが「あれも悪くなかったよ」と笑ってくれたらなと思います。

香港、サンフランシスコ、シアトル、ハノイと引越しを重ねながら3人娘の子育てに奮闘中。
子育てのつまづきをきっかけにコーチングに出会い、さらに、子供たちと向き合う中でEQの大切さを確信。
現在、コーチングでより良い親子関係を!EQで子供たちの生きる力を!を目指して
Mother’s Journeyを運営し子育てについて深め合う場を作りながら、
自らも日々学びながら子育てを楽しんでいる。